人生他人任せだった頃の話~若野さきの10代~20代

最近、自分がわざわざ動かなくても、
世界が調整されていく「愛」を感じています。
 
 

太郎の中学校の野球部が、
親のサポートがすごく大変って有名だったけれど
(1kg弁当とか、電車で遠征引率しないといけないとか、
丸坊主マストとか(あ、これ親関係ないけど)
今時?!って感じだったのです)
今年から、顧問の先生が替わって、
今までのルールがなくなったり、
 
 
マウンティングしてくる相手に辟易していたら、
いつの間にか去ってくれていたり、
  
 
この本読みたい!って思って、
図書館リクエストしたら、
歩いて2分の図書館出張所で翌日受け取れたり、
 
 
最近、周りの大人も息子達も
キングダム、キングダムって言うので、
(三郎なんか、映画見てから、ずっと決め台詞を繰り返してるし)
そんなにイイなら、と、キングダム(漫画)読んでみよっかなぁと
思ったら、
これまた歩いて2分の区民館に、どっさり置いてあること判明。

ありがたや~♡
 

そんな訳で、最近私の周りがイロイロ調ってきています♪

今、自分の世界観、目指す理想の世界、
新しい旗をたてるにあたって、

これまで私は何を目指して、
生きてきたのかなぁというところを
振り返ってみようと思います。

 

 
あんまり、自分の過去のことを
書くことがなかったけれど、
どう見られるか、みたいな不安。
意図しないメッセージに受け取られたら
どうしようという不安があったんだろうな。

 

でも、今日は、書いてみようと思います。

私、なんとなく、スムーズに生きてきた。
たぶん、回りから見てもそう見えるんじゃないかなと思います。
  

生まれたときから、20代半ばまで。
そりゃ、悩んだり、悲しんだり、喜んだりしながら、
生きてきたんですけれど、

 
物心ついたころには、
「世の中一般(特に親)が正解と決めた未来」
その都度目標にしてやってきたんでだということに
書いてみて気付きました。
 

常に、都度現れる、与えられた目の前の目標しか見てなかった!
しかも、その目標って、
親や会社が決めていたってハナシ。

世間一般には、よさそうで、
だけど、何の面白みもない、みたいな展開になりそうだけど、
私の昔をのぞいてみたいかたは、続きをどうぞ。
 


(中学校はメガネっ娘&手綱のようなお下げ)

【中学~大学時代】
 

中学時代、
勉強は出来たし、運動もそこそこ出来たので、
学校の教室ではトップクラス。
通知表はほぼオール5。音楽が4だったくらい。
塾でも上のクラスに振り分けられていました。

(早速ムカついたら、ごめんなさい(笑)
 でも、そうだったんだもん。)  
  

 
当時、少なくとも私の周りに居た大人(親、先生、親戚など)にとって
健全な子どもの本分は「勉強すること」だったし、
教育=5科目のテストで100点を目指すことだった。
学級委員もやったりして、The優等生。
  

千葉の市立中学校に通っていた私は、
塾の先生や親が勧める
千葉でもトップクラスの公立高校を受験することになっていたし、
頑張れば合格できる範囲にいる、と思っていました。 
 
 

でも、中学3年生の年末に、親から
大阪へ転勤だから、
その学校は受験できないって言われました。

 
  
そのとき、どんな気持ちだったか、
ほんとに、今は思い出せないけれど、
小学6年生の2学期に引っ越しもしていたし、
引っ越しは人生につき物だと思っていたのか、
そのときの感情を思い出せないと言うことは、
たぶん、そんなものか、位だったんでしょうね。
 

親がここだと思う高校を見つけてきて、
滑り止めの私立も言われるがままに受験して、
学区トップの大阪の府立高校に入学することになりました。

  
 
結果として、関西カルチャーに溶け込むことに必死、
自由な校風でとっても楽しかったので
自分が高校選びに関与しなかったことについて
なーーーんとも思っていませんけれど、
事実としては、
親が決めた世間的に良いと言われている
学校で、高校生活を送りました。 

 

 

で、次は、大学受験。
どの学部にしようかなぁとは自分で考えていて、
小さい頃から学校の先生になりたかったし、
数学キライ、文学が好きだったので、
教育学部か、文学部で教員免許を取るというのは、
自分で決めました。
 
  

それ以外の基準は、
「自宅から通えて、できるだけ偏差値の高い国立大学へ進学する」
 

関西には大学はいっぱいあるし、
大学のために、下宿なんて頭になかった。
周りの友達も家を出て下宿しなかったし、
妹は私立の学校だったから、お金の負担をかけられないと思っていたし、
もう、当たり前のように、
関西圏で国立大学進学を考えていました。
センター試験の結果から、表をあれこれ見て、
受験大学を選んだのはでした。
文学部だし、近いし、教育系の大学だったし、
結果として、実家から、ドアツードアで30分のところにある
国立大学に進学しました。

で、大学も、世間一般の偏差値神話のもと、
親の決めた大学に4年間通います。 

 
あぁー、ほんと、私何も自分で決めてないのよねぇ。

【社会人】

そして、大学4年の春から教育実習&就職活動。
 

  
教育の現場しか知らないのは、つまらないと感じたものの
学生生活の集大成として中高の教員免許は取得。 
いざ、一般企業で働こうと思い、
自分が興味のあった部分と
ステイタス的な部分の重なり合うところで就職活動開始。
がOKしそうな業種&職種でまずはばくっと絞り込む。 
で、目指すは、「総合商社」と「銀行」。
(ほんと、分りやすいブランドと高収入)
 
     
バブル崩壊で就職氷河期世代。しかも女子。
企業に請求しても、
エントリーシートすらもらえない。
(昔は手書きだったからね~)
   

このとき、男女平等ってウソだったと知るわけですが、
就職氷河期に、縁故なしで、
 

内定率0.06%の狭き門をくぐり抜けて、
当時8大商社の一つだった総合商社の正社員 
メガバンクの営業職に応募して、
面接の途中で引き抜かれて、役員秘書

希望していた総合商社と銀行、
奇跡的に、それぞれ両方の内定をもらうことになりました。
(翌年、母校の大学で就職セミナー講師をすることになる)
  

そこで、どちらに就職するのがよいか、占いに聞きに行った(!)
(でも、私がどちらにするか決めた後で、
 その結果は教えてくれたけど。)
 

ワクワクするのコッチだと思って、総合商社へ。
その直後、あの、山一証券が倒産の天変地異。
一気に金融再編成、金融と密接な商社業界も再編成の波。
私が春から働く会社は、入社直前にまさかの株価割れ!

 
でも潰れずに、無事入社。

職場としては、猛獣いっぱいのサバンナみたいで楽しかったけど。
商社マン、アホなのかなって思った瞬間はいっぱいあって、
一緒に、アホなことしてもいいかなっても思っていた時期。

会社にはいると、今度は、
会社が決めた目標に向かって歩む人生が始まりました。
 

 
5か年プロジェクト
年間計画、月次決算
利益率_%アップ、コスト削減
 
 
会社の利益を上げること=自分の生きる使命
みたいになっていて、
 
 
熱が出たくらいで会社休めない
サービス残業当たり前
私がやらなきゃ、迷惑かかる

 
会社に尽くす人=賞賛に値する
会社や部署に貢献しない人=邪魔者扱い

会社が自分の住む世界の全てで
会社の価値観を自分の価値観にして働いていた頃。
その会社の価値観も一枚岩というものではなく、
現実と建て前が数字で表されたり、操作され、
矛盾する価値観を突きつけられながら
社会に出るというのは、そういうことなんだと
訳の分からない納得をして、
それがある意味カッコイイんだと意味不明の解釈をしながら、
仮面を慌ただしく付け替えていた頃。

会社のビジョンが、
あったのか、なかったのかさへ分からないくらい、
数字達成、納期厳守のために、
目の前のことをこなすことで精一杯。
  
 
時間とエネルギーを注いだ見返りとして、
同期では唯一の飛び級昇進、そして昇給。
大きな展示会プロジェクトの中心メンバーになったり、
広報に頼まれて、新聞に載ったり。
(→新聞のおかげでストーカー被害に遭う)
 

どんな仕事がしたいとか、
あんまり考えたこともなかったし、
自分の仕事が、世界の豊かさと
どう繋がっているのか、

実感することもほとんどなかった。
  

会社が善とする範囲の中で、
会社とお客さんに奉仕していました。
 

 
同期とのランチタイムでは、
入社5年目を過ぎる頃から、
徐々に人数が減りだして、
 

同期女子の間に流れる、
クリスマスケーキには間に合わなかったけど、
30歳までにはという、焦り。
 
 
「30歳までには結婚すべき」
 
という20代後半女性の価値観のもと、
焦りと諦め。

親のすすめでお見合いしても、
気に入られても、気に入れない。
この人かなと思った人は、
相手の詐称が発覚し、
親に反対されて、自暴自棄。
そして、不毛な恋愛に足を突っ込んでいくことに。
 
 

20代後半~31歳直前、夫に出会うまで、
暗黒時代が続きます。

 

自分が、どう生きたいとか、
どんな世界を作りたいととか、
誰を幸せにしたいとか、

なぁぁぁぁぁんも、考えていませんでした。

 
なんなら、
「私、あなた(世間、会社、彼)にあわせて頑張るから、幸せにして」
 
という 他人軸&最終他力本願&自分の幸せ他人任せ
でおりました(はずかしっ)
 
その当時、自分の定義する幸せも、
世間や親が決めていたものだったと思います。

受験、就職、結婚と、
節目節目に 親や世間が良しと思うような
「目標」を決めて、クリアしたとしても、
「目的」が決定的に欠如していたんですねぇ。

 

いざ、私が出産で会社を退職し、
分かりやすい社会のレールから切り離されると、
襲ってきた「目標喪失」。
 

一人、部屋で呆然としていて、
私には社会的価値はあるんだろうか?、、、と自問自答。
 
    

太郎が無事、お腹から出てくると、
今度は、自分がどうこう、じゃなくて、
太郎のために時間とエネルギーを費やすことが、
自分のアイデンティティにすり替わっていきました。
子育てが次なる「目標」になったわけです。

でも、それを人生の目的にしたら、
私も子どもも不幸だなと
生んだときから思ってました。

 

子どもを生んで、ようやく、
長いスパンで自分の人生を見つめるようになった気がします。
それまでは、年齢を重ねれば、
会社で仕事を続けていたら、
勝手に目の前の目標が現れるような仕組みの中を生きていたけれど、

子どもが誕生したことで、
10年単位での子どもの成長とか、巣立ちとか、
次世代とか、先の世界を見る余裕ができたんだと思います。
 
 

ほんと、それまで、目先人間だったんだなぁ。

世界観、理想の未来、実現したい世界といった
「生きる目的」
  

そんなこと、一ミリも考えたことがなかったし、
出産するまでは、
それがなくても、何も不自由することなく、
生きてこられたんですよね。
ステレオタイプの「成功」「幸せ」を目標にして、
自分の成功、幸せだと信じて、追いかけていて、
それを手にしていたら安泰だった。
 

それでよかった時代だったんだと思うんです。
しかも運良く、結果としては、
そのレールに乗っかってこれたから、
そう言えるのかもしれません。
 

自分で自分の幸せを設定してこなかったこと、
世間や親のレールに乗っかってきたこと、
与えられた目標だけをこなして、目的をもっていなかったこと、
目標を達成したら、それに見合うものを手にしてきたこと、
 

私は、これに、いい、悪いもなくって、
親に対してどうとか、
世間に対してどうとか、
当時の私に対してどうとか、
特別な感情は何もない。

 

今回、振り返って言葉にしてみたことで、
自分が生きてきたフィールドが、
想像以上に、親の価値観による選択によって、
決められていたんだという驚きがありました。
 

でも、
あぁ、そうだったんだねぇ、
それだけ。
 

もう大人なので、その生き方は卒業したいから、
 

 「私、あなた(世間、家族)にあわせて頑張るから、幸せにして」

から、
 
 
「私、実現したい世界があるから、一緒にそこにいって幸せになろ♡」

こっちに行きますよん♪

今日もお読み下さり、ありがとうございます。

 

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